吉田元首相の学術会議民間移管論
亡くなった小泉信三博士はそのエッセイ「必然と偶然」のなかで「歴史上の『若しも』ということ」を「興味本位に取り扱うことは勿論禁物であるが、しかしまた、それは十分考察に値する問題であることも思うべき」であると書いている。
この小泉さんや田中耕太郎博士と個人的にも親しかった吉田茂元首相は、学者好きで、学者をくどいて閣僚や交換の椅子にすえたことは、逆に南原繁博士を「曲学阿世の徒」と避難したことと共に、ワンマン宰相のかなり有名なエピソードとして残されている。
吉田さんの選択眼か、または貴族趣味か、あるいは批判されることを拒否する体質から出たものかは、ここで問い直しても仕方がない。ただ、吉田さんは「学者をよく視ていた」と、いまなお評するひとがいる。
そうした吉田さんが昭和二七年ごろ、「日本学術会議は政府の予算によって運営されていながら、政府批判や政治的論議ばかりやっている」と、行政機関である学術会議〔注1〕を民間に移管する構想を持ち出したことがある。これは古い学術会議の会員や、あるいは学術会議に関心を持つ人なら、よく記憶している筈である。
おおげさに言うなら、学術会議の性格、ひいては運命を決定するにいたる民主主義科学者協会〔民科=後述〕は、当時、学術の民主化、科学活動における共同戦線結成の旗を立て、学術会議内に巧みに「陣地を構築」していた。その民科勢力の引き回しによって、学術会議は、自らが政府機関でありながら政府を批判する声明を、次々に発表していたのである。ワンマン首相が怒るわけだ。
- 昭和二十四年「大学等学術研究機関の人事について学問・思想を守るべきこと」の声明〔注2〕
- 同二十五年「戦争のための科学を行わない」声明〔注3〕
- 同二十七年「破壊的活動防止法反対」声明〔注4〕
このほかにも昭和二十六年のサンフランシスコ講和条約に際し、多くの学術会議会員が「全面講和」を唱えて政府批判を行ない、(78頁参照)同年十月「講和条約調印に際して声明」が学術会議「学問思想の自由研究会」から提議された。が、これは総会で否決された。
学術会議が「虚に吠え」れば、全国の大学の左翼教授や有志、「民主的」と称する学会が、一斉に大同小異の見解を同時に発表する。逆も真で、これは一種の戦後風潮だが、今日でもこれは変わらない。吉田首相ならずとも、これでは為政者として何らかの手を打たざるを得まい。なぜなら、学術会議の責任を、国会つまり全国民に負うのは、最終的には内閣総理大臣であるからだ。吉田さんの場合、その手とは、学術会議の民間移管という構想であった。
結果的に、二年後の昭和二十九年末、吉田内閣が倒閣して、この議は沙汰止みとなった。が、当時をふり返って元会員の東海大・工楽英司教授は、こう言っている。
「一九五四年末の吉田内閣の退陣がなければ、今日の学術会議は、すでに早く、やむなく大転換させられていたかもしれない」
この「もしも」は、かなり重大な意味を持った「もしも」ではないだろうか。
もしも、吉田内閣が倒れていなかったとすれば、日本学術会議は今日、単なる民間の一機関にすぎず、従って、その団体が日本共産党の強い影響化にあろうとなかろうと、また政府のとのトラブルが潜在しようと顕在化しようと、今日のような政治問題とは、おのずから違った次元のものになっていたはずである。
もちろん、右の考察は一面的にすぎる。学術会議を政府との対立の側面でばかり取り上げることは、必ずしも性格とはいえないかもしれないし、また民間移管することだけが問題を解決する方法ではないかもしれない。が、すくなくとも、政府を特定のイデオロギーから公然批判する行政機関があっていいはずはないし、批判するならするで全く別のルールがあっていい。そういう機関を放置しておく「無策の策」も策の一つだろうけれども、それでは政府の国会、全国民に対する責は果せない。吉田さんの民間移管策も「十分考慮に値する問題であること」は事実であろう。
それにしても、日本学術会議という機関は、もう二十年以上も、有名無実、反政府、反体制的な機関だと言われつづけて来た。いまもそうである。ばかりでなく、学術会議不要論、解体論も根強い議論だ。それは一体、何に由来するのか、まず、その原点をさぐって見る必要がある。
第十六条 内閣総理大臣の所轄の下に、日本学術会議を置く。
2 日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させるための機関とする。
右の条文から学術会議は行政機関と規定され、従って当然、国会に対して責任を負う。
―「学者の国会」日本学術会議の内幕 時事問題研究所編,1970年より)
関連書籍
