学術会議をこう見る②『政府は学術会議を解散すべし』【資料・赤い巨塔(1970年) 】

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政府は学術会議を解散すべし

京都大学名誉教授 大石義雄

日本学術会議の「あり方検討特別委員会」が学術会議総会二日目の昭和四五年四月二三日に提出した中間報告草案のうち「あり方改革の方向」の内容をみると「学術会議の存在理由は、単に『日本学術会議法』の立法の精神などにもとづくだけでなしに、過去二一年間の活動それ自身によっても実証されてきたといえるであろう。科学の発展をはかり、内外の研究連絡を促進し、行政、産業、国民生活に科学を反映、浸透させるうえで科学者の代表機関としての学術会議が必要不可欠な存在であることは疑いをいれない」といっているが、わたくしのみるところでは、過去二一年間の活動を通じてみて、このような学術会議が必要不可欠な存在であるとはとうていかんがえられない。わたくしは、このような学術会議はむしろ無いほうが国のため世のためだとおもう。だから、できるだけ早く解散し、国が国税を支出してその存在をつづけることをやめることが必要である。もちろん、民間団体として、国とは関係なしに、これを設ける設けないは自由である。その方がどれほど国のため世のためになるかわからない。極端にいえば、これまでの学術会議の存在は税金の無駄であり、且つ国のため世のため、有害である。

有識者の目からみて、これまでの学術会議の実体は、総理府管下の行政機関でありながら、学者としての独立した立場から政府に対して意見具申する権限を与えられているが、偏向イデオロギーに支配された傾向は否定できないとおもう。公正であるべき学術会議が、一部偏向勢力の恣意によって構成され、良識ある学者の知らんところで運営されるならば、行政機関としての存在価値などかんがえられない、有害無益の存在である。

こういうと、あるいは人はいうかも知れない。それは運営の当否の問題で、だからこそ、学術会議改革が問題でなるのであって、学術会議存続の当否の問題ではない、と。しかし、わたくしのみるところでは、今日のような学界の客観的条件を前提としてそのような改革が可能だとかんがえることがそもそも問題なのである。つまり、それは百年河清を待つことで、できないことはわかりきっている。現に国立大学の教授が国家破壊の言動を公然と行っているのに、これを排除することもできないのが今日の国立大学の現状ではないか。

そういうと、言論は自由だ、表現の自由は憲法の保障した国民の基本権だとわめきたてる者が多いのであるが、国家破壊の言動もまた憲法が保障するとどこに書かれているか。それどころか、憲法は「この憲法が定めた自由は常に公共の福祉に合致するように利用する責任を負ふ」と定めているのである。国家破壊の言動が公共の福祉と両立しないものであることは自明のことである。世の中には言論の自由を売物にして金もうけをしている者もあるが、手放しの言論の自由などは、どの時代、どの社会でも認められない。なぜなれば、手放しの言論の自由を認めたのでは、平和的社会生活が破壊されるからである。だから、われわれは、言論の自由を売物にしている商人どもにだまされてはならない。

わたくしのみるところでは、行政機関としての、従って国税でまかなう学術会議的なものは、あくまでも全国民に責任を負うことのできる性質のものでなければならない。そうなると、これまでの学術会議は精々民間団体としてのみその存在が許される性質のものである。わたくしは、なぜ政府は早く学術会議を解散してしまわないのか、これこそふしぎである。政府としては、国民に責任を負うことのできる学術機関だけをかんがえるべきである。

 

(「赤い巨塔」(1970年) 時事問題研究所 編 161頁~163頁より)

 

 

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