寄稿者:しげぞう
令和3年、皇紀2681年の紀元節。
とても良い日和。近所の神社に出向き、一人で紀元祭。
祓詞(はらえのことば)を奏上し、神武天皇を偲びまつる歴代天皇御製を拝誦(はいしょう)。
続いて橿原(かしはら)奠都(てんと)の詔(みことのり)を奉読。紀元節の歌を4番まで歌う。
祈念、拝礼。時間にして10分程度か。
神社に行く途中、国旗を掲げている物産会社があった。
とても綺麗な日の丸だったので写真に撮ってみた。
紀元節の日の奉祝行事がこれほど取りやめられたのは、恐らく明治以来のことではないだろうか。占領下がどうであったかは判らないが、占領下に行われた世論調査で、残すべき祝祭日の筆頭に90パーセント以上の国民が望んだのが紀元節だったことを考えれば、密やかにでも必ずお祝いしていたはずだ。戦後独立回復後も長く紀元節は祝日として回復することができなかった。浮上しては見送られるような状況が続いた。ようやく昭和41年になって、建国記念の日として祝日法が改正され、政令によって復活した。昭和42年からは国を挙げての行事ができるかと思いきやそうはならなかった。以来、国家行事としての奉祝行事の開催が望まれたが、及び腰であり続けた政府、自治体。民間主導の奉祝行事が全国津々浦々で開催され、政府・自治体に要望が続けられた。ようやく政府が関与する式典が開かれるかと思えば神武建国も天皇陛下万歳も隠される体たらく。神武建国の肇国(ちょうこく)の理想を語り伝える人々も高齢化し、戦後教育に毒されたエリートたちが社会の中心に盤踞(ばんきょ)するようになった。
我(われ)東(ひがし)に征(う)ちしより、茲(ここ)に六年(むとせ)になりぬ。
皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を頼(かがふ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。邊土(ほとりのくに)未(いま)だ清(しず)まらず。餘妖(のこりのわざはひ)尚(な)ほ梗(あれ)たりと雖(いへど)も、中州(なかつくに)の地(ち)、復(また)風塵(さわり)無(な)し。
誠(まこと)に宜(よろ)しく皇都(みやこ)を恢廓(ひろめひら)き、大壮(みあらか)を規(はかり)つくるべし。
而(しか)るに、今運(いまとき)此(こ)の屯蒙(わかくくらき)に屬(あ)ひ、民(おほみたから)の心(こころ)は朴素(すなお)なり。巣(す)に棲(す)み穴(あな)に住(す)む習俗(しわざ)惟(こ)れ常(つね)となれり。
夫(そ)れ、大人(ひじり)の制(のり)を立(た)つる、義(ことわり)必(かなわ)ず時(とき)に随(したが)ふ。
苟(いやしく)も、民に利(くぼさ)あらば、何(いか)にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且(また)当(まさ)に山林(やま)を披拂(ひらきはら)ひ、宮室(おほみや)を経営(おさめつく)りて、恭(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨(のぞ)み、以(も)て元々(おほみたから)を鎮(しず)むべし。上(かみ)は即(すなは)ち乾霊(あまつかみ)の國(くに)を授(さづ)けたまひし徳(うつくしび)に答(こた)へ、下(しも)は即(すなは)ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養(やしな)ひたまふ心(みこころ)を弘(ひろ)めむ。然(しか)して後(のち)に六合(くにのうち)を兼(か)ねて、以(も)て都(みやこ)を開(ひら)き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(な)さむこと、亦(また)可(よ)からずや。
夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地(ところ)を観(み)れば、蓋(けだ)し國(くに)の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。
(「橿原奠都の詔」)
神武建国の2681年前は紀元前660年前ということになる。それが信じられない人も、この「橿原奠都の詔」が記された日本書紀の成立が1200年前だったことは否定できない。つまりどんなに短く見積もっても1200年前の時点で、日本の国の建国の最初に、このような理想を掲げたと祖先たちが信じたことは、紛うことなき事実なのだ。この事実は、日本人としては、基本中の基本の知識として、知っておかなければならないことであるはずだが、現在の教科書でこれに触れたものは皆無。キリスト教で聖書を無視し、イスラム教でコーランを無視し、仏教で仏典を無視するようなもので、アメリカ建国史で独立宣言を無視し、イギリス史でマグナカルタや権利の章典を無視するようなものだろう。およそ日本人として胸を張りたいのであれば、諳んじて言えるようにしておきたいものだ。そんなに長いものではない。
初代神武天皇様の、息づかいが伝わってくるような詔(みことのり)だと、自分には思える。
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