寄稿者:しげぞう
渡部昇一先生の『腐敗の時代』に納められた「戦後啓蒙の終わり・三島由紀夫」といふ文章があることを、古い知人から教へられた。渡部昇一先生の本の殆どを、この夏の大整理の際に処分して、さすがに捨てるのは忍びないので、甥にまとめて渡した段ボール箱に入れておいたのを思い出し、連絡して送り返してもらった。ちなみに『正義の時代』に小林秀雄論があるといふので、それも一緒に送ってもらった。
一度は読んだことがあるはずだが、おそらくまだ20代の学生の頃だったろう。読み返してみて、目を開かされる思いがした。渡部先生らしく、映画館での出来事から語り起していた。新宿の映画館で見た山口二矢少年が、当時の社会党委員長浅沼稲次郎氏を演説中の演壇に飛び出して刺殺した事件の映像が流れ、その生々しさから思索をはじめられるのだ。
社会党が議会内での実力行使を宣言した時から、つまり、議会において多数決ではなく、暴力によって議決を阻止するという方針を取った時から、右翼テロを生み出すという予感を持っていた渡部先生は、事件そのものへの驚きは薄かったが、山口少年が後に「天皇陛下万歳」「七生報国」との血書を鑑別所の壁に書き残して自決したことに、衝撃を受けられている。そしてなぜか三島由紀夫の「鏡子の家」と、石坂洋次郎の「青い山脈」「山のかなたに」を読んだというのだ。
昭和45年11月25日、三島由紀夫が「七生報国」の鉢巻をして、自衛隊市谷駐屯地のバルコニーにおいて「天皇陛下万歳」を唱え、その直後に切腹したという知らせに接した際、「青い山脈」「山のかなたに」を赤鉛筆を手にしながら読み、「直観が正しかったことを確信した」渡部先生は、三島由紀夫は「鏡子の家」を書いて、戦後と決別した、と直感している。それは、「青い山脈」に表現されたような「戦後」である。この視点は、今回読み返してみて、意外だった。そんなに早い時点から、という思ひである。
三島や森田青年は死んでからもまたどこかで会えると確信していた。そういう確信がなければ、ああいう死に方をするわけはない。~母親には、「自分のやることは百年、二百年後にはじめてわかってもらえる」と言っていたという。
かくて戦後、最も輝かしい知性と豊かな教養を示した文学者三島由紀夫は、普通の意味での教養をほとんど持たなかった山口二矢少年と同じく、「七生報国」と「天皇陛下万歳」を最後の文字として幽界に去ったのであった。啓蒙主義者にはキチガイと嗤うべく。霊の不滅を信ずる者は瞑目して鎮魂の祈りを捧ぐべし。
短いながら、非常に深く切り込んだ三島論だと思った。
今でも、「嗤う」人が後を絶たない。若い、保守と言われるような人の中にも、時折見受けられる。そんなことは、もうとっくの昔に、お見通しなのだ。
三島・森田両烈士の義挙から50年の今日、NHKでも特集が組まれた。幾つもの新しい三島論の出版が相次いでいる。まだ50年。あと50年経つ頃には、どうなっているだろうか。
親友だった作曲家の黛敏郎先生は、「精神的なクーデター」だったと常々言われていたという。100年かかるクーデターだ。その半ばに現在逢着しているのだ。