寄稿者:しげぞう
明治維新後、南洋開発に尽くされた小嶺磯吉さんという日本人がおられたことは、『インド太平洋開拓史』で初めて知りました。P50~51にかけて記されています。
肥前島原の出身である小嶺磯吉さんは、1890(明治23)年、24歳の時にオーストラリアの木曜島にわたり英国人に雇われてダイバーとして真珠採取に携わります。その間に、ニューギニアまで訪ね、南洋が豊かな海であることを知ったそうです。1893(明治26)年には、榎本武揚が設立していた殖民協会で報告し、小嶺と榎本が相知ることになり、南洋の未開発地への入植計画が立ち上がります。1902(明治35)年から1912(大正元)年にかけてドイツの商社と手を組んで、ニューブリテン島やニューアイルランド島、アドミラルティ諸島を開発して、日本から150名近い移民を受け入れたそうです。1914(大正3)年勃発の第一次世界大戦では、小嶺は豪州軍をドイツから守り、豪州政府から表彰されたのだそうです。
1919(大正8)年には、ラバウル一の金持ちと言われるほどに商売で成功し、現地の住民の紛争調停などでも活躍し、更に現地の幾つかの言語にも通じて、文化への理解を深め、資料の収集も行ったそうです。しかし第一次世界大戦後、赤道以北の南洋群島が日本の委任統治領となり、独領ニューギニアはオーストラリアの委任統治領になり小嶺の商売は圧迫されてしまいます。日本政府は、オーストラリアとの軋轢を恐れて小嶺の支援要請に応じず、小嶺は事業を整理せざるを得なくなったそうです。そして1934(昭和9)年、食中毒で亡くなりました。小嶺の影響力を恐れたオーストラリア政府の手があったとも言われているそうです。(「インド太平洋開拓史」から要約)
近代日本と南洋の関係を知る上で、欠かせない人物であると思いました。