【資料・沖縄黒書(1967年) 】序文④沖縄問題解決の方向 福島要一氏 (沖繩・小笠原返還同盟編)

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沖縄問題解決の方向

福島要一

沖縄(そして小笠原をも含めて)問題を考える場合、これを日本的意義と世界的意義とに分けて考えて見たい。

日本的意義の一つは、いわゆる日本人の感情論である。その感情論にも、いろいろの種類があるが、それが素朴なものであればある程保守的な政治政略に利用され、ナショナリズム的感情の鼓吹(こすい)と結びついて、軍国主義的傾向に傾斜して行く。

同じ日本人感情論でも、それが、植民地的支配に対する反対感情となった場合は、これは権力に対するたたかい、もっとはっきり言えば反アメリカ的闘争という形をとって、或程度そうした勢力との連帯的感情を帯びるようになる。

しかしこの感情論が、感情論に止まる限り、なんと言っても、アメリカ帝国主義と結びついた日本独占に対するたたかいを強めることはできない。帝国主義的アメリカへの反感と言うより、民族的反感情として、アジテートされるが、結果的に、条件付き返還論のような、無原則返還論に移行して行く。

これが沖縄運動のむずかしいところで、運動の観点から言うと、感情的返還論は、容易に大衆の心に訴え、いかにも運動が発展したような錯覚を起すが、それは必ずしも定着せず、教育権の分離返還とか、核基地つき返還とかいう思想に容易に流れて行く。だから、沖縄・小笠原の問題は、一般に考えられるほど容易ではないし、今や、その理論的究明が非常に重要となりつつあるのである。

沖縄・小笠原の問題を、社会的観点から捉えた場合に、やはり二つの立場が見られる。その一つは差別の問題である。この差別は、沖縄の人の側からも提出されるし、本土の人たちの側からも取上げられる。これらはまた容易に感情的なものと結びつく。両者の間の較差(かくさ)が、特に理論的較差が強調されるあまり、そのような較差の生じている原因の探求にメスを入れることが忘れられがちであり、ここでも、沖縄・小笠原問題の論理性の欠如が運動の進展を阻んでいる。

したがって、今や最も重要なことは、人民の側に立った、沖縄・小笠原、本土の一体性の立場にたって、もっと深く論理的に掘り下げることである。そして、そのためには、そうした立場に立って究明した事実分析が大切となってきている。

この一体性について、もう少し具体的に言うと、それは、今や刻々と進行している本土における、人民の権利のはく奪が、沖縄・小笠原においては、早くから実現しているという事実の認識であり、そのために、ここの事実の歴史的、現時点的解明と、それの理論づけが必要なのである。

この本土と沖縄・小笠原の一体性というのは、そこに住む人たちが同じ日本人だからというようなことではなく、その人たちから、基本的な人間の諸権利が奪われているということからくる一体性として捉えなければならないのである。一体性ということを、そのような観点から把握しないと、却って、「同じ日本人だのに」というような感情論になって、結局、差別の面のほうが強く出、共通の責任感というものが生れてこないし、その結果として、当然、共通のたたかいにならないのである。小選挙区の問題も、裁判移送のことも、教公二法にしても、そして土地取上げにしても、そうした観点から見て行かねばならない。

小選挙区、教公二法は別として、裁判移送の問題はまさか本土では起るまいという考え方があるが、これは誤である。最近の本土に見られる、行政権による司法権の侵害の顕著な事例の頻発は、事実上、裁判そのものが、アメリカ帝国主義に従属しつつあることを示している。国会周辺デモの禁止についての佐藤首相の司法権への介入はその一つの例で、問題はむしろ本土の人たちが、これを、沖縄の裁判移送に匹敵する重要な問題だと意識しないところにあるのである。

一九七〇年の安保改定と結びついて、アメリカ帝国主義と日本独占が着々として準備しいつつある体制の中で、沖縄、小笠原、本土の人民の諸権利のはく奪が急速に進められており、それはまた、ベトナム戦争の世界戦争への拡大の意図と結びついているのである。

この観点から、沖縄・小笠原の問題は、まさに世界史的な問題であり、その故にヨーロッパの人びとにも強い関心のあることが、いろいろと知られている。私は今年、一九六七年五月、バートランドラッセルの提唱した、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く国際裁判に出席したが、ラッセルが言った、「この地球の上に、九十万以上の人間が国籍を持たないという驚くべき事実」という表現も、ヨーロッパ人の関心のあらわれ方を示している。

八月の末に開かれる東京法廷で、日本政府のベトナム戦争に対する協力、加担の最大の問題として、沖縄問題があり、沖縄の証人が、わざわざ法廷へ参加することが決定されていることも、また沖縄問題が、どうしても国際的に議論されなければならない問題となりつつあることを示している。

ここでも、本土との一体性の問題が当然考えられる。即ち、今や沖縄にあのような基地をゆるしておくことが、それ自身、大きな日本政府のベトナム戦争への協力、加担の実体となっている点が告発されるのである。

日本政府のベトナム戦争加担という問題と、本土、そして新に沖縄の基地経済依存とが混同されている点に、特別の注意を向けなければならない。

もし、軍事基地が一朝にして撤去されたならば、沖縄の経済が破壊されるだろうという考え方が、ひろく宣伝されている。土地を返してもらっても、明日から耕作ができない。それはコンクリートで固められてしまってどうにもならない。そういうことがいわれている。これは正に逆立ちである。

ある人が土地を借りた場合、原型にして返還するのが常識である、アメリカは当然、そこまでの責任を負うべきものである。それについてアメリカが責任を取らないとすれば、当然、そこで日本政府の責任が追求されなければならない。アメリカ兵士や駐在員の宿舎をつくった損害は、アメリカの政府または日本政府が負うべきもので、沖縄の人たちが負うべき問題ではない。そういう要求をすることが当然の「人民の権利」だという感覚がないし、そういう観点から、日本政府に対決する意識がないから、たたかいにならないのである。

このような基本的な権利意識をもって考えれば、沖縄・小笠原の問題の解決の方向ははっきりしているのである。

アメリカが、ベトナムにおいて、あのような侵略戦争を行っていることが、民族の、自主独立の権利を破壊しているのだということも、この観点から明白になる。そしてその民族の権利は、どこまでも、一人一人の住民の生活を基礎にすべきもので、その上ではじめて、生産も、社会も成り立つのだという基本的な考え方、そして、そこから、個々のものを判断する論理性と勇気がなければ、沖縄の問題も、小笠原の問題も、本土の問題も、そしてアジアの世界の問題も解決しないのである。

われわれはあまりにも永い間、無権利状態におかれたために、人間の基本的権利の要求を忘れてしまっている。沖縄・小笠原の問題の解明をその観点からすること、それが当面われわれにとって、最大の緊急課題にあり、根本課題であると考える。そうした論理的なものをふまえて闘った時、はじめて沖縄のたたかいを本土でもたたかうことができるようになるのだ。

《日本学術会議員》

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