【資料・沖縄黒書(1967年) 】序文①沖縄―人間回復のいとなみを 木下順二氏 (沖繩・小笠原返還同盟編)

広告
資料データ
広告

沖縄―人間回復のいとなみを

木下順二

沖縄の問題というものは、一つの集約のようなものではないか。

たとえば、今日日本の本土の上に、非常に多くの外国の軍事基地がある。そういう外国の基地をたくさんその上に載っけたなりで、日本の文化は高まり、経済力は高まり、繁栄と太平ムードがみなぎって、世界のなかでの「大国」というものに日本がだんだんなってゆくというようなことがあるならば、それは奇妙な状態というべきではないか。

近頃日本の社会が「どこか狂っている」というふうにしばしばいわれることの根本的な原因の少なくとも一つは、そういう「奇妙な状態」の中にあると私は思うのだが、「不沈空母」と呼ばれて全島の大部分が基地化されている沖縄には、そういう点でも(そういう点だけでいっても)日本の問題が集約されているはずだといえる。本土では太平ムードの中で水増しにされ、ぼやかされ拡散されている実は本質的なことがらが、沖縄では煮つめられた形で見てとれるはずだといいなおしてもいいし、同じことだが、沖縄にどぎつく現れている状況こそが、実は日本の本当の姿だといいかえてもいいわけなのだ。

ところがそういうふうな考え方を持ちながら、その一方で、そういうふうな考え方と全く矛盾考え方というよりは感覚が私たちのなかにあるということに、次自分というものへ少し注意を払ってみれば私たちは気がつくだろう。それは本土の私たちが、日本のいろんなことがらを、つい沖縄を除いたところで感じたり、考えたり、論じたりしているということだ。たとえば核弾頭の持ち込み反対、アメリカの原子力潜水艦の寄港反対、というようなことをいう場合、私たちはそれらのものが、沖縄においてはとっくの昔に持ち込まれ、あるいは寄港しているという事実を、つい念頭から放してしまっていることがしばしばありはしないか。

また、たとえば日本の都市がこうむった空襲の惨禍について語るとき、壊滅し去った首里や那覇などは含まない日本本土だけの問題を、つい日本全体の問題として、しゃべっていることがないと言えるか。

なぜ、ついそういうことになるのか。

地理的に沖縄が本土から遠く離れているからか。それもあるにはあるだろう。しかし、決定的なのは、そんな距離の問題などではない。沖縄と本土のそのような関係、沖縄を無視したって痛くもかゆくもないという関係、いや実はそんななまやさしいことではない。本土は沖縄を一方的に利用するだけ利用すればそれでいいのだという関係、そういう政治的関係が、両者のあいだにあったし、しかも非常に長い期間にわたってあり、続けたということが、今日の私たちに沖縄というものをつい忘れて日本を論じさせていることの、決定的な理由なのである。

だから、いま私たちが、今日の沖縄というものをともかくも理解しようと思うなら(そしてそのことは、すなわち今日の日本を理解することだ)私たちはたんに今日の沖縄を観察するだけではなく、どうしても歴史的に沖縄と本土の関係をとらえようとしなければならなくなってくるのである。

本土が沖縄をはっきりと「支配」しはじめたのは江戸封建制の初期、十七世紀の初めから出、直接には薩摩の島津氏が「支配者」であった。過酷きわまる税の取り立てが、しばしば残虐な方法をともなって行われた。しかも薩摩は、そのようにして沖縄から沖縄の生産する富を吸い上げただけではない。沖縄の人びとに中国の服装をさせることによって、一層の利益を得ようとした。国内的には、中国服の沖縄の指導者たち(当時の「琉球国王」とその一行)を江戸の将軍のところへ時どきにぎやかに参上させ、薩摩はこのような「異民族」を自分の支配下に持っているという印象を広く与えて自分の勢威を誇ろうとしたし、また事実当時の沖縄は中国(唐)と貿易していたので、その貿易から沖縄の得る利益をも、薩摩は十分に吸い上げようとした。

次に明治政府も沖縄を支配した。明治政府が富国強兵政策によって日本を急速に強国たらしめようとし、その政策が国民の犠牲において強行された事実は、敗戦後に書かれたどの明治史をあけてみてもすぐわかることだが、その際いちばんひどい飛ばっちりを受けたのが、それまですでに長い間「異民族」視され、「従属国」扱いを受けてきてきた沖縄であった。

つまり明治政府は、沖縄に対してははっきりと差別的な制度を持って対した。近代化において、沖縄はすべて本土人よりもあとまわしにされ、沖縄の人が沖縄で食えないから本土へ出てくる場合には、就職条件や就職後の待遇にもはっきりと差別があった。関西や九州の求人のビラに、チョウセンとリュウキュウお断りをそえ書きがしてあるのを実際に見たことがある人は、いまでもたくさんいるはずである。(ついでだが、今でもこの差別は残っている。沖縄からの集団就職者を寮に入れてパスポートを取りあげ、他の会社にいけないようにして低賃金で酷使している例がある。)

ここで今度の太平洋戦争になるが、日本本土は、これまでの歴史的関係のなかでも、それこそ最大限に沖縄を「利用」した。ひとくちにいえば、沖縄の全滅に近い犠牲において、本土はいわば一億総玉砕を免(まぬか)れたのである。そして今日の本土の繁栄や太平ブームも、またまともな意味での「平和」も、すべて沖縄の犠牲の上に成り立っていると考える考え方が成り立つ、というのが現在の状況なのだ。

その沖縄は、いまアメリカの支配下にある。アジア全域にたいする絶対不沈の空母として、まさに徹底的にアメリカに「利用」されている。

戦時中に、戦前に、明治時代に、さらには江戸封建時代に、日本本土の住民たちが沖縄の人びとを「支配」し「利用」し、差別待遇を与え、犠牲を強いた。私自身は、個人的にはそれのどの罪をも犯してはいない。が、にもかかわらず、それらの罪を犯したのは当時の支配者だからそれらの罪と自分は無関係であるといって涼しい顔をしていることを許されないだろうと私は思う。早い話が、さっきいくつか挙げた、本土の私たちがつい沖縄を無視するという事例は、少なくともそれらの罪の拭いきれぬ痕跡だといえるだろう。

罪という宗教上のことばのかわりに、ここで責任ということばを使うことにしてもいい。だとすると、拭いきれぬ罪ということばを、負いきれぬ責任というふうにいいなおしてもいい。負いきれぬ責任が私たちの上にあるのだという認識を持つこと、そこから私たちの行動を出発させるということはできないか。

最後に、今日の沖縄の問題を、従って日本問題を直接的に解決するのはいうまでもなく政治である。単純にいいかえれば、日本から外国の軍事基地をなくすのは、従ってそういう形で沖縄を解放するのも政治の力にほかならない。

そのことができるためには政治が問題を解決して行く過程の中で、同時に沖縄と本土との両方の人びとが、それぞれに生き生きとした生命力を持って自立し得る人間になっていなければならないだろうと私は考える。沖縄の側からいえば、本当に復帰したいと思うような本土で本土がなければならないし、本土からすれば、差別感や好奇心の対象であるような沖縄で、沖縄自身があっては困るわけなのだ。概念的なことばだが、人間回復、そのためのいとなみが、おのおの双方でつづけられることが必要なのだ。そして実はそのこと自体こそ「政治」の内容であるべきなのだと考える。

(この文章は筆者の「沖縄」というエッセイ〔『日本が日本であるためには』―文藝春秋新社、一九六五年所収〕を、筆者の了解を得ての編集部による要約であります。―編集部)

《作家》

木下順二氏プロフィール(Wikipediaより)

木下 順二(きのした じゅんじ、1914年(大正3年)8月2日 – 2006年(平成18年)10月30日)は、日本の劇作家、評論家。代表作に『夕鶴』がある。日本劇作家協会顧問。伯父は佐々醒雪(俳人、国文学者)。著名な進歩的文化人であった

木下順二 - Wikipedia

 

(運営者注)
一七世紀初頭における琉球への薩摩入りと統治については、その後の研究により伴天連追放、異国船監視との関係が指摘されている。また明治維新による明治政府の支配も、それに遡る欧米列強によるアジア侵略、アヘン戦争による清国の敗北や琉球へ異国船が度々寄港するようになっていたこと(中には上陸後に測量調査までしている事例もある)などとも無関係に語ることはできないし、文中に台湾に関する記述が一切出てこないことも、この原稿が書かれた時代ではタブー視されていたということだろうか?
なお、この文の中では本土の人たちが沖縄の人たちを「異国人」視したことを問題視していることは、現在の「琉球先住民族論」や「琉球独立」論者とは真逆の思想であることは、注目に値する。
タイトルとURLをコピーしました