【韓国】「抗日英雄はメイド・イン・ジャパン」完全版(但馬オサム)

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明治期に再評価された李瞬臣(イ・スンシン)

李舜臣銅像 (釜山広域市)

韓国で安重根と並ぶ超級クラスの抗日民族英雄といえば、「文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて秀吉軍を返り討ちにした」と伝説化されている李瞬臣(イ・スンシン)将軍の名が浮かびます。釜山(プサン)市には日本の方角を睨む形で巨大な李瞬臣の銅像が建っており、また近年ではサッカーの日韓戦では韓国側の観客スタンドに安重根と共に李瞬臣の肖像画が描かれた横断幕が翻(ひるがえ)るのが恒例となっているようです。安重根同様、李瞬臣も映像作品などを通して虚実ないまぜの英雄像がいつの間にか定着して今日にいたっています。何年か前ですが、韓国の研究家が、李瞬臣水軍の亀甲船(きっこうせん)の実物大モデルを復元し海に浮かべたところ、またたく間に沈んでしまったのには哀れさを感じたものです。

実はこの李瞬臣将軍、朝鮮では近代になるまですっかりと忘れられた存在でした。彼の再評価が起きたのは、明治のころの日本だったのです。李瞬臣の名は、それを遡る江戸時代の戦争講談本『朝鮮太平記』、『朝鮮征伐記』などに鋼鉄の敵将として登場しています。これらに描かれる李将軍は堂々たる巨躯の持ち主で、日本軍の鉄砲の弾を腕に受けても平然としている怪人です。敵を強大に描くのは、いわゆる劇画的効果を狙ったものだと思われますが、それが後世の李瞬臣像に多大な影響を与えたのは想像に難くありません。

明治期になって征韓論(せいかんろん)から併合にいたるまでの過程で、一種の朝鮮ブームのようなものがありました。それに合わせて講談本からの豪傑(ごうけつ)将軍・李瞬臣の発掘がなされたわけです。併合にあたって、日本人は韓国人を蔑視するどころか、わざわざ韓国人が誇れる”英雄”を掘り起こして、自国民にも「敵ながらあっぱれ」と言わせているのです。また、東郷平八郎が尊敬する軍人として李瞬臣将軍の名を挙げ、日本海海戦の戦勝を彼の霊前に祈ったという都市伝説もまことしやかに広がって、韓国人の自尊心をいやが上にでも刺激しました。現在の韓国で語られる李瞬臣のヒーロー・イメージはそれらを逆輸入し、さらに幾重(いくえ)もの潤色(じゅんしょく)がほどこされたものと考えていいでしょう。こちらも安重根同様、「日本人が一目置く李瞬臣将軍」がまず先にありきのウリナラ英雄だったのです。

思えば、安重根も李瞬臣も、そしてあるいは金嬉老も、韓流ブーム以前の韓流スターだったといえるのかもしれません。まず、日本で売り出し、「日本で大人気」という錦の御旗を掲げ凱旋帰国、その余力を借りて市場を世界へと拡大する、プロモート戦略のモデリングとして彼ら先人たちを参考にしているのでしたら、韓国芸能界もなかなかおそるべし、といえましょうか。

安重根の勘違い

他章でも少し触れましたが、私個人の評価として安重根を見た場合、せいぜいが森の石松といった役どころがいいところなのです。「馬鹿は死ななきゃ直らない」と浪曲で歌われる森の石松は、おっちょこちょいの早とちりで向こう見ず。そのくせ、正義感が強く曲がったことと嘘が嫌いで、なによりも次郎長親分に対する忠誠心は人一倍強い、愛すべきキャラクターです。もし、石松が刑事事件を起こして収監され、私が看守として彼に接する立場でいたとしたら、彼の真っ正直な人柄に惚れ込んでいたことでしょう。そして、その一本気な性格を別の方面で活かしたならば、さぞかし立派な仕事をなしただろうと惜しむばかりだと思います。せめてもの形見に、彼の書(石松が書を書くのかは知りませんが)や絵をもらい受けることもやぶさかではありません。安重根もそういった人間的魅力のある人物であったとは推測されます。

安の石松ぶり(おっちょこちょいぶり)は、彼が公判中に主張したという、いわゆる「伊藤博文殺害の15の理由」にも顕著(けんちょ)に現れています。安は理由の1として、伊藤を閔妃(びんひ)殺害の首謀者であるとしていますが、誰に吹き込まれたは知りませんが、これはまったくもって早とちりの勘違い。確かに伊藤内閣の時代の事件ではあるものの、大院君(だいいんくん)の意を汲んだ禹範善(ウ・ボンソン)訓練隊隊長とその一味の犯行であることは明らかで、何よりも禹範善本人がこれを認めていており、それを理由に彼自身も殺害されているのです。

現場にいた数少ない目撃者で閔妃の王子であった純宗も禹範善の犯行であることを証言しているのでこれは間違いではないでしょう。禹範善一味の乱を黙認していたということでいえば、三浦梧楼公使も広い意味の共同正犯と言えるし、乱に日本人浪士が加担していた可能性は否定できませんが、この事件に伊藤が一切の関与をしていないのは明白です。

また、安は、理由の14に、伊藤が孝明天皇を毒殺したことを挙げています。孝明天皇の暗殺説は当時もまことしやかに流れていたといいますが、あくまで都市伝説の域を出ません。これも彼の早とちりです。それにしても韓国人である安が日本の天皇の敵討ちをなぜやろうと思い立ったのか、それこそ彼の皇室に対する尊崇の念を現す証左ではないでしょうか。

(次のページに続きます)

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