「ルーピー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」~鳩山由紀夫がイカれているわけ 完全版(但馬オサム)

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サンフランシスコとサマー・オブ・ラヴ

ニュー・エイジはどこから来たのか。
1960年代後半、アメリカの西海岸を中心にヒッピーという一大カウンター・カルチャーのウェーヴが起こったが、このヒッピー文化こそが、その後のニュー・エイジの母体といえる。

当時、アメリカは大きくゆらいでいた。ベトナム戦争の泥沼化から全米には厭戦(えんせん)ムードが広がり、徴兵拒否と反戦運動が高まりを見せていた。若者は髪とヒゲを伸ばして、社会の構成員であることへの拒否を示し、既成のあらゆる価値観に抗(あらが)った。ハプニング・アートやポップアートが流行り、ドラッグとロック・ミュージックは反体制のシンボルとして彼らに深く受け入れられていた。そんな土壌からヒッピー(hippy/hippie)という集団は生まれたのである。

ヒッピーたちはコミューン(共同体)を作り、そこではマリファナによる意識転換が試みられ、フリー・セックスや雑婚が謳歌された。ラヴ&ピースは彼らの合言葉であり、自然回帰としてのヌーディズムや、キリスト教文化へのカウンターとしての東洋思想(禅やヨーガ、ヒンドゥー、タオ、気功)がもてはやされた。マハリシ・ヨギシュリ・ラジニーシといった導師(グル)は彼らの新しいヒーローとなった。

インスタント禅とトリップ

しかし、彼らはやがて、もっと手っとり早い「覚醒」「悟り」の手段を得る。
リゼグルド酸ジエチルアミド。略称LSD。俗称エル、アシッド。

ミッキー・マウス・ブランドのLSD(紙に沁み込ませたタイプ)。この郵便切手4分の1程度の紙片一枚で2~4人がトリップできる。

1938年、スイスのサンド製薬の化学技師・アルバート・ホフマンによって初めて合成されたLSDなる化学物質は、無色無味無臭の液体で、少量で色彩を帯びた強烈な幻覚を体験できるのが特徴である。サイケデリック(psychedelic)という言葉はこの独特のトリップ感から生れた。LSDに肉体的精神的依存性はないが、トリップ時間が長く(通常6~12時間)、その幻覚は強烈で、「神の啓示に触れた」「宇宙と一体化した」など宗教的体験を報告するユーザーも少なくない。そのためか、一回の体験で以後の人格や思想に決定的な影響を残すこともありうるという。「インスタント禅」と呼ばれるゆえんだ。オウム真理教が信者の洗脳にLSDを用いていたのは有名である。日本では、シート状の紙にしみ込ませたタイプが一般的だが、錠剤やゼラチン状のもの(通称ウインドウペーン)などタイプもさまざまだ。角砂糖にしみ込ませてジュースやコーヒーに混ぜて服用する方法もある。

参考のために、私(但馬)のLSD体験を少し紹介しよう。服用後30分後にベッドの上に横たわっている自分が、スーラ―の点描画のような色彩の粒の中にいることに気づき、ついで、灰皿の中にタキシード姿の男が死んでいるのを見た。友達に電話をしようと手にした電話の受話器はダリの絵のようにグニャグニャに曲がり腕にからみついてくるのだ。幸か不幸か宗教的体験らしいものもなく、トリップそのものもあまり心地のいいものでもなかったので、以後、再びエルをキメることもなく、30年以上が経っている。とっくの昔に時効だと思い、あえて記した。

鳩山幸氏の経歴を見ると、1967年、宝塚歌劇団を退団、米サンフランシスコに居住とある。これと前後して、現地の日本レストランの支配人を務める前夫と結婚している。

ヘイト・アシュベリー

さて、この年のサンフランシスコといえば、サマー・オブ・ラヴと呼ばれたヒッピー文化のまさにビッグ・バンである。前夫の日本レストランがあるゴールデン・ゲート・パークは、ヒッピーたちの集会所であり、その目と鼻の先にあるヘイト・アシュベリーは多くのコミューンがひしめき合い、昼間からストーンした(ハイになった)半裸の男女が行きかうような場所だった。東洋ブームということで、彼女の店にも髪とヒゲを伸ばしたヒッピーたちのたまり場だったことだろう。金のない連中だが、茶一杯でも客は客だ。もっとも、彼らはもうひとつのTEA(マリファナ)の方は絶やさなかったとは思うが。

LSDでストーンしたブライアン・ジョーンズ

サマー・オブ・ラヴのもっとも代表的なイベントといえば、同年6月、3日間の日程で行われた伝説のロック音楽祭「モンタレー・ポップ・フェスティバル」である。出演者の一部を紹介すると、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス、グレートフル・デッド、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、ジェファーソン・エアプレーン、ジ・アニマルズ、ザ・フー……それにスタッフとしてブライアン・ジョーンズ。いずれもドラッグとは、切っても切れない顔ぶれだ。これに、ジョージ・ハリスンにも多大な影響を与えた、インドを代表するシタール奏者のラヴィ・シャンカルが加わっている。

ちなみに、♪サンフランシスコに行くなら髪に花を挿して♪と歌った、有名なスコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』はこのフェスティバルのテーマ曲として作曲された。歌の文句通り、フェスティバルに集まってきた全米のヒッピーたちは、髪に花を飾り平和のシンボルとし、自分たちをフラワー・チルドレンと称したのである。

このころ、シスコのLSDビジネスを牛耳っていたのはオーズリー・スタンレー3世という男で、彼の作るエルはトビの良さもさることながら、品質にバラつきがないのが評判だった。独学でLSDの精製に成功、シスコに秘密のLSD工場を持ち、生涯において26万回トリップ分のLSDを売った、という伝説の人物で、「もう一人のサンフランシスコ市長」という異名を取っていた。

ビートルズが最初に試したLSDもオーズリー製だったといわれている。モンタレー・ポップの実行委員の一人だったポール・サイモンはオーズリーに接近、彼のホームタウンであるNYではまだ珍しかったLSDをしこたま買って持ち帰っている。同じく実行委員のジョン・フィリップ(ママス&パパス)がジャニス・ジョップリンとお近づきの握手をしたあと、自分の掌を見ると二粒の錠剤が乗っかっていたという。バットマンの絵が刻印されたオーズリー・ブルーという逸品だ。そんな“上物”がわずか2ドルで、誰でも手に入ったのが、当時の花のサンフランシスコなのである。

(モンタレー・ポップフラワー・チルドレン。この群衆の中に幸夫人もいたかもしれない)

Scott McKenzie - San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)
Monterey International Pop-Festival, 1967

不倫のはてに同棲

幸夫人はその、ヒッピーの聖地、サイケ文化の渦中にいたのだ。彼女自身がフラワー・チルドレンの一人であったかは知らないが、シスコでの生活が彼女のオカルト人生に強烈な影響を及ぼしたのは確かであろう。それは、彼女を通して、2年遅れてアメリカ入りした4歳下の夫、由紀夫にも浸透していく。

由紀夫とは、一時帰国中、知人に紹介され知り合ったという。その後、シスコで再会、逢瀬を繰り返すようになっていった。幸夫人は、バスの中などで由紀夫と偶然顔を合わせることが続き、「運命的な何か」を感じて交際が始まったとテレビ番組で語っている。由紀夫の通うスタンフォード大とゴールデン・ゲート・パークはわずか60㎞。通勤圏である。

当時、幸夫人は人妻であったから、当然不倫ということになる。当時の夫の元には、留守中、幸が堂々若い男を家に引き入れているというタレコミの手紙も届いていたという。当の幸氏にすれば、フリー・セックスや乱交が当たり前のシスコにあって、不倫ごときにさほど罪悪感もなかったことだろう。これは余談だが、1967年、全米一位を記録した映画『卒業』は、人妻がウブな大学卒業生を誘惑する話だった。アメリカに来たばかりの幸夫人も当然、これを観ているはずである。映画に出てくる印象的な橋はサンフランシスコ・ベイブリッヂであるのも面白い。

ほどなく、幸夫人は前夫に書置きを残して出奔(しゅっぽん)、由紀夫と同棲を始めるのである。以後、前夫には一通の手紙、一本の電話もなく今日にいたっているという。由紀夫と幸が晴れて夫婦になるのは1975年、くしくも、ベトナム戦争終結の年だった。

1970年代も後半になると、集団的なヒッピー運動自体は過去のものとなりつつあったが、彼らのイデオロギーは、エコロジーやスピリチャル、そしてニュー・エイジと形を変えて今に続いているのである。

(次のページに続きます)

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