学術会議の誕生と病根③学術会議の誕生【資料・赤い巨塔(1970年) 】

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学術会議の誕生

占領軍によって強引に推進されたいわゆる民主化政策は、わが国各層に深刻なトラブルをひき起したが、学界もその例に洩れなかった。それは、いわば占領軍という権力を頂点とした旧勢力と新勢力、漸進派と急進派との間の争いであった。

わが国には戦前から終戦にいたるまで学術三団体と呼ばれるものがあった。帝国学士院、学術研究会議、日本学術振興会の三団体である。

ところで、占領軍にとって学界の民主化は基本的科学政策の一つではあったが、同時に、その実行については、日本人の自主的解決にゆだねる方針をとっていた。そこで二十年十月二日、右のうちの学術研究会議が、戦時研究から国民福祉をめざす研究への転換を発表し(敗戦に伴う改組問題も論議)、翌二十一年三月、文部省はその建議に基づいて学術三団体代表者による改組準備委員会を設けた。けれども、この委員会の審議は内外からの批判によって紛糾をきわめ、準備は遅々として進まなかった。

このような日本の複雑な学界の事情に、GHQ経済科学局・科学技術部は、内部事情と意思の疎通を求め二十一年六月、日本の科学者との連絡を円滑にするという目的で、東大理学部の茅誠司、嵯峨根遼吉、田宮博の三氏を中心とする非公式な科学渉外連絡会(Science Liaison――S・L)を設け〔注1〕、学術体制刷新を見守ることになった。科学渉外連絡会のメンバーは、いわばアカデミー派であっても、敗戦まで学士院の旧勢力に頭をおさえられていたリベラル派であり、学術体制の改革問題を、従来の三団体首脳がみずから行なうことは不適当であるという強い批判意見の持ち主たちであった。この連絡会メンバーの意見が、GHQの民主化政策に強い影響を与えたことは当然であったろう。

このような事情を背景に、二十一年十一月、GHQ経済科学局は、三団体と文部科学教育局、それにS・Lのメンバーを集め、あらためてS・Lに学術体制刷新を委託した。このため、学術研究会議間の改組準備委員会はやむなく解散に追い込まれ、代って文部省の斡旋で「学術研究体制世話人会」がつくられた。

メンバーは茅誠司、我妻栄、金重勘九郎らの諸氏で、いずれも後に学術会議の会長、副会長となる。

茅、我妻、それに嵯峨根、田宮、中谷(宇吉郎)の諸氏は「学界、学術の民主化」とはいっても、いわば近代派、現実派であって、かれら自身、アカデミィの主流を占めていたのはいうまでもない。ところが、これら諸氏に対抗してひどく急進的な学術民主化の旗印をかかげていたのが前記の民科系左翼学者で、この対立は、後に学術会議の第一回総会冒頭から猛烈な理論闘争を展開することになる。その萌芽はこの「学術研究体制世話人会」においてすでに見られた。

学術研究体制世話人会は、学術体制刷新委員の選出方法を定め、それに従って二十二年五月から八月にかけて刷新委員の選挙が行なわれた。しかし、選出された刷新委員の刷新についての考え方はまちまちだった。

図式的にいえば世話人主流となったS・Lの人びとは、GHQの構想する「アメリカ学術諮問団」の報告に沿った審議機関と、それに従う科学行政機関をつくることを推進し、急進派の民科系委員は、まず学界内部の民主化を進めることが学術体制刷新だと主張し、これに対する右派系の委員は、刷新の必要などなく、各科学者がおのおの研究に精進して、政治や社会にわずらわされないことが必要だと消極論、刷新不要論を説く始末であった。

こうして刷新委員会の指名についての基本的認識すら統一されないまま、刷新委員会は二十二年八月二十五、六日に第一回総会を開いたが、審議は遅々として進まず、ようやく二十三年三月二十五~二十七日の第八回総会で最終答申案を決定した。S・L系の意見が大勢を支配したのである。

答申案は「わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政・産業及び国民生活科学を反映浸透させることを目的とする」日本学術会議を内閣総理大臣の所管のもとに設置すること。学術会議の任務遂行の上で必要となる各省間の連絡調整を行なうための科学技術行政協議会(略称STAC)を設置すること。および学術会議会員の選挙規則を内容とするもので、占領中につくられた行政機構のなかでも、会員を選挙でえらぶという点で、まことに特異なものであった。

この答申案には、もう一つの「もしも」があるのだが、それは後にゆずるとして、ともあれ答申案は二十三年六月八日に閣議決定され、七月二日衆議院、同五日参議院を無修正で通過し、七月十日「日本学術会議法」として交付された。その誕生はまことに難産だった。法の前文にいう。

「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下にわが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設置される。」

法の精神は確かにりっぱなものである。しかし、弊害はすぐあらわれた。

〔注1〕S・Lにつづき工学渉外連絡会(E・L)、農業渉外連絡会(A・L)、医学渉外連絡会(M・L)が結成された。

―「学者の国会」日本学術会議の内幕 時事問題研究所編,1970年より)

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日本学術会議の研究 (WAC BUNKO 331)
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