新型コロナウィルス感染を防ぐための県外移動自粛が解除されて間もない令和2年(2020年)6月22日、私は羽田空港から沖縄・那覇空港に向かう飛行機に乗り込んだ。
沖縄は既に梅雨明け宣言が出た後であったものの、この日はあいにくの雨模様、湿度も100%近くあった。那覇で借りたレンタカーのクーラーのスイッチを入れると、吹き出し口からの冷気にあたった空気が白い霧状となり、まるでミストを吹き出しているかのようだった。
沖縄訪問の目的は、翌日6月23日の「慰霊の日」。
沖縄県民以外、多くの日本人が意識していないこの日は、現在の上皇陛下が皇太子殿下時代であった昭和56年(1981年)8月7日の記者会見で、
「日本人として忘れてはならない4つの日」
としてお言葉を述べられた「沖縄戦終結の日」だ。
毎年6月23日 沖縄慰霊の日
毎年8月6日 広島原爆の日
毎年8月9日 長崎原爆の日
毎年8月15日 終戦記念日
(出典:宮内庁HPより)
翌朝の未明、午前4時頃に沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)に集合した我々一行は、街灯もない暗闇の中、懐中電灯やスマホの明かりを頼りに数百段の階段を登り、摩文仁の丘の上に建てられた「黎明の塔(れいめいのとう)」を目指した。まとわりつく湿気と吹き出る大量の汗、ぬかるんで滑って転びそうになる足下、沖縄戦とはこのような過酷な気温や湿度の中で行われた戦闘であることを改めて実感する。
昭和20年(1945年)6月23日の午前4時半ごろ、第32軍司令官であった牛島満中将(当時)は壕の中で自決をし、日本軍としての組織的な戦闘は終了した(ただし散発的な戦闘は9月まで続いた)。
令和2年のこの日、午前4時半を少し回った頃、現役自衛官有志の方々が、摩文仁の丘に立つ「黎明の塔」に到着した。周囲には我々のように自衛官とともに祈りを捧げるためにこの場所に集まった人々だけではなく、自衛官による慰霊を取材するマスコミ関係者も多くいた。
集まった自衛官の方々は献花の後、塔に向かって静かに祈りを捧げ、その後さらに平和祈念公園内にある、国立戦没者墓苑や島守の塔(しまもりのとう)などで同じように祈りを捧げた後に平和祈念公園をあとにした。
予想していた通り、後日報道された沖縄タイムスの記事は、この自衛官による慰霊の参拝を批判的に取り上げていた。しかし、自衛官とて一人の人間である。有志が私的に行っている慰霊の行為の何が問題だというのだろうか?多様な視点を提供もせず、「旧日本軍=悪」という歴史観と、「憎しみ」の感情を永遠に読者に刷り込み続けることこそが大切だと思っているのか?
一方、チャンネル桜・沖縄支局が制作した「それぞれの慰霊の日」動画は、沖縄タイムスの報道とは対極的なものであり、戦没者への慰霊の祈りの様子を、静かに淡々と伝えるものだった。
慰霊の日の報道として、沖縄タイムスの報道視点とチャンネル桜・沖縄支局の報道視点、どちらを子や孫の世代、そして百年後・二百年後の日本人に受け継いでいくのが良いのか。
私はチャンネル桜・沖縄支局の視点こそ、慰霊の日の本来の趣旨に次の世代に受け継いでいくべきものと思う。
(2020.07.09追記)
TEAM OKINAWAさん撮影の参考動画