<琉球新報・社説>歴史教科書『ひめゆり「部隊」との記述は不適切!』 →昭和50年7月17日琉球新報夕刊『源(みなもと)会長が(皇太子)ご夫妻の前に歩みよって「ひめゆり部隊」の活躍から悲惨な最期までのもようをご報告』

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<社説>歴史教科書検定 沖縄戦の美化を危ぐする
2021年4月1日 05:01

76年前の今日、米軍が沖縄本島に上陸した。激戦に動員された若者を顕彰し、県民は戦争に「協力した」とたたえるような教科書の記述で沖縄戦の実相をゆがめ、美化する動きを危ぐする。

文部科学省は2022年度から使う教科書の検定結果を公表した。歴史教科書には沖縄戦の県民犠牲を称揚するような記述があった。
明成社の「歴史総合」は鉄血勤皇隊として戦場に動員された県立第一中学校の生徒を慰霊する「一中健児之塔」を「顕彰碑」と記述した。また、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒で編成した「ひめゆり学徒隊」を「ひめゆり部隊」と記述した。
旧制中学・師範学校の生徒を戦場へ動員し、犠牲を強いた経過に照らしても「顕彰」「部隊」の記述は不適切だ。
一中健児之塔は犠牲者を悼み平和を希求するための慰霊碑であり、「顕彰」する碑ではない。管理する養秀同窓会も「顕彰碑と説明したことはない」としている。「部隊」という記述ついて、沖縄大学の新城俊昭客員教授は「法的根拠もないまま補助兵力として戦場に動員された女子学徒の編成を『部隊』と称するのは誤りだ」と指摘した。明成社は「顕彰碑」の記述を「慰霊碑」に改める意向だ。
自由社の中学歴史教科書にも容認しがたい記述がある。沖縄戦に関して「この戦いで沖縄県民にも多数の犠牲者がでました。日本軍はよく戦い、沖縄住民もよく協力しましたが、沖縄戦は6月23日に、日本軍の敗北で終結しました」と記した。
ここでは「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦最大の教訓が無視されている。兵士に死を強いる陸、海、空の特攻作戦は戦術を無視するものだ。さらに、県民は「よく協力した」と記述することで「軍官民共生共死の一体化」の下で県民を根こそぎ動員した事実をゆがめた。沖縄戦犠牲における国や軍隊の責任を隠ぺいするものだ。
沖縄戦が6月23日に「終結」したという記述も誤りだ。牛島満司令官らの自決で組織的戦闘は終わったが、牛島司令官は最後まで戦うよう兵士に命じており、散発的な米軍との交戦は続いたのである。
「集団自決」(強制集団死)の記述をゆがめた教科書検定問題の教訓に立ち返る必要がある。記述回復を求める訴えの中で、県民は沖縄戦の実相を正しく伝えるため、沖縄戦研究者を検定作業に参加させるよう求めた。その訴えが十分に生かされていない。
沖縄戦の史実を正しく継承するため、息の長い沖縄戦研究と体験者による証言活動が積み重ねられてきた。それは平和創造の礎となるものだ。
学校教育の場で沖縄戦が正しく伝えられるよう私たちは教科書記述を注視し、誤りがあれば正さなければならない。同時に沖縄戦研究やさまざまな証言を踏まえた情報発信にも努める必要がある。

<社説>歴史教科書検定 沖縄戦の美化を危ぐする
 76年前の今日、米軍が沖縄本島に上陸した。激戦に動員された若者を顕彰し、県民は戦争に「協力した」とたたえるような教科書の記述で沖縄戦の実相をゆがめ、美化する動きを危ぐする。  文部科学省は2022年度か...

ネットの反応

★なんとまあ?
「ひめゆり学徒隊」を「ひめゆり部隊」と記述なんて?
『危ぐ』じゃなく、【事実誤認』である。
#歴史修正主義者に抗議します
教科書問題も重要ですが、実際に教える教員、書物、語り部の協力こそ大切だ。

ねじ曲げた歴史を学校で堂々と教える国、日本

《76年前の今日、米軍が沖縄本島に上陸した。激戦に動員された若者を顕彰し、県民は戦争に「協力した」とたたえるような教科書の記述で沖縄戦の実相をゆがめ、美化する動きを危ぐする》

沖縄戦の正しい教訓は『軍は住民を守らない』ことがわかった、ではなく『軍が住民を守るようにするにはどうするかを考える』こと。軍の否定にすり替えることではない。

沖縄戦の史実を正しく継承するため、息の長い沖縄戦研究と体験者による証言活動が積み重ねられてきた。それは平和創造の礎となるものだ。
教育の場で沖縄戦が正しく伝えられるよう記述を注視し、誤りは正さなければならない。

沖縄自民の政治家さま方も「美化」する発言が増えてきましたね

昭和50年7月17日付け 琉球新報・夕刊

 

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(NHKアーカイブス)

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(Wikipedia)ひめゆり学徒隊

ひめゆり学徒隊 - Wikipedia

(大田實司令官の電文 現代文(PDF) – 旧海軍司令部壕)

http://kaigungou.ocvb.or.jp/pdf/denbun(yaku).pdf

昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。(この電文は原文を現代文に直したものです。)
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