沖縄には義烈空挺隊(ぎれつくうていたい)を慰霊するための碑が二箇所ある。
・義烈空挺隊慰霊碑(糸満市摩文仁・いとまんしまぶに、平和祈念公園内)
・義烈空挺隊玉砕の地碑(読谷村・よみたんそん)
いずれの碑も全日本空挺同志会が所有・管理をしている。
令和2年(2020年)6月23日の沖縄慰霊の日、私は前日22日から沖縄を訪れ、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある義烈空挺隊慰霊碑にて祈りを捧げることができた。
もうひとつの義烈空挺隊玉砕の地碑も訪れたかったものの、当日は他にも多くの慰霊碑を訪れたりしなければならなかったことや、糸満市の平和祈念公園から読谷村の義烈空挺隊玉砕の地碑までは車で片道2時間近い時間がかかるため、スケジュール的に今回の旅での義烈空挺隊玉砕の地碑訪問はあきらめざるを得なかったが、2019年1月に同地を訪れていたので、その時の記録にて報告する。
義烈空挺隊慰霊碑(糸満市摩文仁・平和祈念公園内)
(画像はチャンネル桜・沖縄の声の動画よりキャプチャ。動画はこちら)
建立は、沖縄県が米軍統治下から日本本土に復帰した4年後の昭和51年(1976年)。
皇室の方々が沖縄にお出まし(行幸啓・行啓など)された時、那覇空港から真っ先に訪れる「国立沖縄戦没者墓苑」や、特攻隊を祀った「空華(くうげ)の塔」、沖縄戦当時の県知事・島田叡(しまだあきら)氏や公務員の戦没者を祀った「島守の塔」など数多くの慰霊塔・慰霊碑が、義烈空挺隊慰霊碑と同じ平和祈念公園の中にあるため、沖縄訪問時にはぜひ最初に訪れていただきたい場所である。
平和祈念公園地域の慰霊塔・慰霊碑の詳細は、以下の公益財団法人・沖縄県平和祈念財団のWebサイトを参照して欲しい。
(各都道府県慰霊塔・碑一覧)

義烈空挺隊玉砕の地碑(読谷村)
義烈空挺隊玉砕の地碑は、沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)にある。慰霊の日にはスケジュールの都合で訪れることができなかったが、2019年1月に訪れたときには、Google Mapナビ(経路案内)に従って車を走らせ、少し道に迷いはしたものの、読谷村役場から10分程度でたどり着くことができた。
最後は未舗装の道路となり「本当にこの道でいいのか?」と思いながらも、駐車しても邪魔にならない場所に車を停め、Google Mapナビを見ながら歩いて碑を探した。緑色の「掩体壕(えんたいごう)」と書かれた案内板の先に、義烈空挺隊玉砕の地碑はあった。私は碑の前に立ち、一人静かに祈りを捧げた。

義烈空挺隊玉砕の地碑は、この掩体壕の横にある
掩体壕の入り口は金網により封鎖されているが、その金網の中には、次のような内容のふりがな付き説明板があった。
負の遺産・沖縄戦の痕跡
(掩体壕写真)
日本にはかつて戦争を繰り返す間違った時代がありました。沖縄もその時代には戦場となり県民は苦しい思いをさせられました。読谷村にもその戦争の痕跡を示す遺跡が残っています。
(忠魂碑写真)
忠魂碑は1935(昭和10)年に読谷山国民学校に建立されました。忠魂碑とは国家、天皇のために戦って死んだ軍人や軍属の忠義魂(ちゅうぎだましい)をほめ讃える記念碑で、多くの若者を戦場へ送り込む教育環境を作り上げるために建てられました。
私個人的には、この説明板の内容には違和感を感じざるを得なかった。かつての日本は悪い国で、教育も間違っており、沖縄県民は日本の被害者であるかのような歴史観は、同村出身の教育者で後の行政主席・本土復帰後の初代沖縄県知事となった屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏の思いともかけ離れているように思えてならなかった。
義烈空挺隊玉砕の地碑は、那覇市内からも車で片道1時間半以上かかる場所にあり、また道中の案内板などが無くわかりづらい場所にあるため、訪問時には十分に余裕を持ったスケジュールでの訪問をお勧めする(トイレや飲食コーナーがある『読谷村地域振興センター&JAファーマーズマーケットゆんた市場』から至近なので、まずはそこを目指して立ち寄るのが便利)。スマホをお持ちの方は、Google Mapのナビ機能を使用するとスムーズにたどり着ける。
読谷村地域振興センター(JAファーマーズマーケットゆんた市場隣り、読谷村の観光や情報発信拠点)

(なお、この読谷村地域振興センターは、義烈空挺隊が強行着陸した読谷補助飛行場の跡地に2016年オープンした新しい施設である。施設のすぐ横は滑走路だった場所なので、そちらも合わせて観ることができる)
読谷村内には他にも戦跡や史跡、座喜味城址、観光スポットが数多くあるので、読谷村を訪れる時はぜひそちらも訪れてみて頂きたい。
(Wikipedia「義烈空挺隊」より)