関東大震災(大正12年9月1日)翌々日の東京日日新聞(現在の毎日新聞東京本社)の記事「不逞鮮人各処に放火し帝都に戒厳令を布く」

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大正12年9月3日 東京日日新聞(新聞集成大正編年史 大正十二年度版 下 関東大震災期 九月、明治大正昭和新聞研究会編)より

不逞鮮人各所に放火し 帝都に戒厳令を布(し)く 三百年の文化は一場のゆめ ハカ場と化した大東京

一日正午の大ヂシンに伴う火災は帝都の各所より一斉に起り二日夕刻までに焼失倒壊家屋四十万に上り死傷算なく同時に横浜横須賀等同様の災禍に会い相州鎌倉小田原町は全滅の惨を現出した。陸軍にては昨深更災害の防止すべからざるを見るや出勤の軍隊に命じて焼くべき運命の建物の爆破を行はしめた。この災害の為め帝都重要の機関建築物等大半烏有(うゆう)に帰しヒナン民は隊を組で黒煙たちこむる市内を右往左往して飢えに瀕し市民の食料不安について鉄道省は各地を購入方を電命し府市当局は市内各所に炊き出しをなし三菱地所部も丸の内で避難民のために炊き出しを行った。

一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり。次で朝鮮人抜刀事件起り警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約三十名は五台の自動車にて現場に向った当市内鮮人、主義者等の放火及宣伝等頻々としてあり二日夕刻よりついに戒厳令をしきこれが検挙に努めている。因(ちなみ)に二日未明より同日午後にわたり各所で極力操作の結果午後四時までに本郷富坂町所で六名麹町署で一名牛込区管内で十名計十七名の現行犯を検挙したがいづれも不逞鮮人である。

鮮人 いたる所 めったぎりを働く 二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す

今回の凶変を見たる不平鮮人の一味はヒナンせる到る所の空家等にあたるを幸ひ放火してをることが判り各署では二日朝来警戒を厳にせる折りから午後にいたり市外淀橋のガスタ◯◯(※欠字・ガスタンクか?)に放火せんとする一団あるを見つけ辛ふじて追い散らしてその一二を逮捕したがこの外放火の現場を見つけ取り押へ又は追ひちらしたもの数知れず政府当局でも急に二日午後六時を以て戒厳令をくだし同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し正力主事山田高等普通課長以下三十名現場に急行し一方軍隊側の応援を求めた。尚ほ一方警視庁本部備へつけの鉄道省用自動車を破碎(はさい)すべく爆弾を以て近寄った一団二十名を逮捕したが逃走したもの数知れず。

鬼気全市に漲(みなぎ)る

不平鮮人団はいづれも帽子をまふか(※目深)にかふっているので普通の男子はすべて帽子をぬぎ左り手に白布をまとふこととし、若しウサンな男に出あった際はまず生國を問ひ答へのにごるものは追究しソレと窮する時は直ちにこぶしの雨を降らす有様で殺気は次第に宮城(※きゅうじょう=皇居のこと)前広場日比谷公園より丸の内一帯同日午後九時頃鮮人の一団三十余名ヒナン民を以て充満した二重橋前の広場に切りこんだとの報に接し江口日比谷署長は部下を率い警戒に任じ十時半頃に至りその一味を発見すると彼らは日比谷公園ににげこみ十数名の一団は時の声を挙げて此処にヒナンしている老幼男女を脅かし各所に悲鳴起り相いましむる声と思ふ呼笛の声鳴り響きおどろくべき呪ひ世界を現出した。

東京駅前の大通で執務している本社出張所付近に怪しき影の出没さへ見え社員は極度に緊張殺気立った。目下警戒に主力を注いでいるのは渋谷方面で鮮人等はこの方面が焼け残っているので放火しようとたくらんでいる。

軍隊全動員 警官隊総かり出し

秩序の維持については軍隊は全動員を行ひ近県宇都宮方面は勿論遠く新潟高田方面よりも来援を求め警察官も亦(また)近県より出来るだけの応援を求めた。

日本人男女 十数名をころす 本部は世田ヶ谷

目黒競馬場をさして抜刀の儘(まま)集合せんとせし不平鮮人の一団は横浜方面から集つたものらしく途中出会せし日本人男女十数名を斬殺し後憲兵警官隊と衝突し三々伍々となりすがた影を隠したが彼等は世田ヶ谷を本部として連絡をとってをると。

横浜を荒し 本社を襲ふ 鮮人のために東京 はのろひの世界

横浜方面の不逞鮮人等は京浜間の線路に向て鶴嘴(※ツルハシ)を以て線路をぶちこはした一日夜火災中の強盗強姦犯人はすべて鮮人の所為であつた二日夜やけ残った山の手及び郊外は鮮人のくひとめに全力をあげられた。

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