「ペリーが浦賀に来航して幕末・明治維新が始まった」は誤り
私たちが学校などで教わった歴史では、アメリカのペリーが黒船とともに突然現れて江戸幕府は大慌て、この事件がきっかけとなり幕末・そして明治維新が始まった、と思っている人が大勢だろう。しかし、この認識は国内事情にのみ着目した認識であり、この時代の東アジアを取り巻く背景を無視した一面的な認識に過ぎない。
年表(「AMERICAN CENTER JAPAN」日米関係>米国大使館の歴史 より一部を引用)
1853年7月 (嘉永6年6月) |
米国のフィルモア大統領より日本の皇帝に宛てた親書を携えたマシュー・カルブレイス・ペリー (Matthew Calbraith Perry)提督が、「黒船」で浦賀沖(江戸湾)に来航。 |
1854年3月31日 (嘉永7年3月3日) |
幕府とペリーは日米和親条約(神奈川条約)に調印。日本は鎖国を解き、下田と箱館(現在の函館)の2港を開港し、領事の下田駐在を承認する。 |
1856年8月21日 (安政3年8月5日) |
初代米国総領事としてタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)が着任。下田柿崎の玉泉寺に臨時の領事館を開く。(現 静岡県下田市柿崎31-6) |
Wikipediaの「黒船来航」の項目を読んでみると、ペリーの黒船以前にも、多くの異国船がアジアに進出してきて日本にも何度も到着しており、虎視眈々と日本を狙っていることが見て取れる。アヘン戦争によりアジアの大国であった清国がイギリスに敗れたのち、欧米列強が次に狙いを定めた場所はどこであるのか?答えはあまりにも明白だろう。
ペリー艦隊が最初に訪れた日本の地は浦賀ではなく那覇
ペリーの取った航路
ペリーはアメリカを出港後、太平洋を渡って直接浦賀に来たのではなく、大西洋航路からアフリカ南端の喜望峰をまわり、セイロン・シンガポール・香港・上海に寄港した後に、那覇にやってきていた。
(ペリー艦隊の航路:国立国会図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」テーマ開設>ペリー来航 より)
(※なお、この図では最終的に沖縄→小笠原→浦賀と向かったように見えるが、実際は沖縄→小笠原→沖縄→浦賀が正しい航路である)
那覇への上陸
ペリー率いる黒船の艦隊が浦賀に現われたのは、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17時と記録が残っているが、那覇に現れたのはこれを遡ること約40日前の1953年5月26日であり、6月6日には那覇の港からの上陸を果たしている。
ペリー一行は首里城を訪れ、琉球王との面会は断られたようであるが、摂政との面会を行っていたようである。
(国立国会図書館デジタルコレクション「ペルリ提督日本遠征記」コマ番号34/187より http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992335)
また、一行は那覇だけでなく、沖縄本島内の嘉手納町(かでなちょう、『字嘉手納のヒージャーガー』)、読谷村(よみたんそん)、中城村(なかぐすくそん)にも訪れたとの記録が残っている。
浦賀からの帰途、香港に向かう途中にも那覇に寄港
ペリーは浦賀からの帰途、香港に向かう途中にも沖縄(琉球)に寄り、そこでは「聖現寺(せいげんじ、那覇市天久)の有料賃借」「石炭貯蔵庫の建設」「密偵の禁止」「市場での物品購入」を要求し、強引に受け入れさせた。
ペリーは幕府の対応次第では、沖縄をアメリカの管理下に置こうとしていた
在ニューヨーク日本国総領事館のホームページに掲載されている、『日米交流150周年記念の日本遠征関連逸話集』に掲載されているエピソードによると、幕府が条約締結を拒絶するか、米船舶への港の開放を拒否した場合、ペリーは武力を行使して沖縄をアメリカの管理下におこうと考えていた、と明記してある。
沖縄は、ペリー提督率いるアメリカの黒船艦隊から、占領の危機のまっただ中にあったのである。このことは現代の沖縄の人たちに、あるいは沖縄以外の国民に、どれだけ認識されているであろうか?
ペリー提督の使命と目的
提督は事故によって日本の海岸に漂着したアメリカ市民の待遇に関して日本政府の釈明を要求し、合衆国政府はもはやかかる行為に耐えることが出来ないと声明し、アメリカの船舶のために少なくとも一あるいはそれ以上の日本の港を開港させることに努力し、もし可能ならば公正にして平等なる基礎に基づいて、日本と条約を協定し、また、一般条約を結べない時は、通商を行うことが出来るような条約を結ぶはずであった。勿論、この点に関しては使命が成功に終わるか否かについて多大の不安があった。そして、提督は、合衆国の当然なすべきことを断固として主張し、祖国の利害にとって望ましいと思われる関係の確立を慎重に主張することで、自分の権限内にあるすべてのことを行おうと決心した。
提督は日本に適当な釈明と弁明をさせ、今後日本に漂着する外国人に対して親切な待遇をおこなう保証を得て、そして日本の諸港に停泊する捕鯨船を親切に迎え、その必要な物資を供給する保証を得ることは、あまり困難でないだろうと考えた。
他の一つの目的の成就については、武力に訴えざる限りは、多少疑問であった。けれどもこの武力策は日本政府側が何らかの明白な悪行又は無礼な行いをなすときにのみ正当とされる手段であって、勿論それは予期されないことであった。(ペリー提督日本遠征記)
沖縄の占領の用意
提督は、アメリカ市民に対する酷い待遇を改めるよう要求するとの自分の使命が容易に達せられると信じたが、それにもかかわらず、いかなる失敗をも防ぐ準備を行った。沖縄(琉球)をアメリカ国旗の管理下におこうと用意していた。もしそれが必要ならば、アメリカ市民に対して行った周知の無礼陵辱への抗議を理由として、このことを行う筈であった。(ペリー提督日本遠征記)
現代でも、第二次世界大戦(大東亜戦争)の頃も、江戸時代にも、沖縄(琉球)は地政学的に国防の最前線であり、要所・要石(かなめいし)であることがよく理解できるエピソードである。
ペリーが来航した時代の琉球国(沖縄)は、実質的に薩摩藩の統治下にあった(外交的には「日清両属」の建前)。琉球にはフランス・イギリスなどの軍艦が頻繁に訪れており、無断で測量まで行っている事例まであった。
薩摩藩がいち早く日本の危機に気づき、集成館事業(最初の近代洋式工場群)の計画に着手し、殖産興業・富国強兵による藩政改革に取り組み、そして倒幕・明治維新に突き進んで行った背景には、日本を統一国家として再編しなければ、琉球(沖縄)のみならず日本全体が、欧米列強に植民地化されてしまうという強い危機感が原動力として存在したのである。
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